米田 吉盛(よねだ よしもり)

(略歴)
1898年(明治31年) 11月10日愛媛県喜多郡満穂村(現内子町)に生まれる
1926年(大正15年) 中央大学専門部法学科卒業
1928年(昭和 3年) 横浜学院創立
1929年(昭和 4年) 財団法人横浜専門学校理事・学監
1942年(昭和17年) 衆議院議員(愛媛県第一区)
1947年(昭和22年) 衆議院議員(愛媛県第一区)
1947年(昭和22年) 横浜専門学校校長
1948年(昭和23年) 日本私立専門学校協会理事長
1949年(昭和24年) 神奈川大学学長
1949年(昭和24年) 文部省大学設置審議会委員
1951年(昭和26年) 学校法人神奈川大学理事長
1955年(昭和30年) 衆議院議員(神奈川県第一区)
1957年(昭和32年) 厚生政務次官
1960年(昭和35年) 衆議院議員(神奈川県第一区)
1964年(昭和39年) 横浜文化賞
1969年(昭和44年) 勲二等旭日重光章
1978年(昭和53年) 神奈川大学名誉理事長
1979年(昭和54年) 内子町(愛媛県)名誉町民
1987年(昭和62年) 5月17日永眠 正四位

(『神奈川大学を築いた人々』から)





林 頼三郎(はやし らいさぶろう)
1878(明治11)年9月6日〜1958(昭和33)年5月7日

埼玉県忍(現在の行田市あたり)に生まれる。
1896(明治29)年東京法学院(現中央大学)卒業。

林頼三郎は、横浜専門学校初代校長となり戦後、1947(昭和22)年に公職追放となるまで長く本学の発展に寄与し、その間、検事総長[1932(昭和7)年]、大審院長[1935(昭和10)年]、司法大臣[1936(昭和11)年]と司法界の要職を歴任し、1928(昭和13)年からは、中央大学の学長に就任している。

また戦後も、追放解除後、中央大学理事長並びに総長として活躍し、本学へも顧問としてたびたび来校し、米田吉盛の協力者として本学発展に多大の貢献をしたが、1958(昭和33)年5月7日逝去した。

米田吉盛は、1959(昭和34)年、本学創立三十周年記念式典で林先生を偲び、次のように述べている。「先生の高潔なる人格と胎蕩たる徳望と官界における名声とは私が本学を経営するために無言の力となり対社会的信用をかち得たことは疑なきところで先生のお蔭によって本学が今日あるを致したと思うのである。感謝に堪えない」。

(『神奈川大学五十年小史』より)





樋貝 詮三(ひがい せんぞう)
1890(明治23)年4月3日〜1953(昭和28)年1月1日

山梨県勝沼に生まれる。
1918(大正7)年京都帝国大学卒業。内閣法制局法制部長、恩給局長、保険院長官を歴任。
戦後1946(昭和21)年衆議院議長、1949(昭和24)年に吉田内閣の国務相。

米田の学校創立の最大の理解者として財団法人横浜専門学校創設時から1947(昭和22)年6月まで理事を務め、米田の学校経営を支援した。

樋貝詮三は、米田の学校経営の構想を理解し、資金面のみならず校地の選定にあたっても現地に赴き若い米田に助言を与えている。
米田は後年、樋貝を「兄のような存在であった」と語っている。





渡辺 利二郎(わたなべ としじろう)
1887(明治20)年7月11日〜1956(昭和31)年3月17日

横浜市に生まれる。
1914(大正3)年東京帝国大学卒業。渡辺銀行取締役、日本電気冶金株式会社監査、渡辺同族会社社長などを歴任。

横浜専門学校の創立にあたり、横浜財界を代表して財団法人横浜専門学校理事に就任、1942(昭和17)年10月まで理事として米田を補佐した。また、この間陸上競技部の顧問も勤めた。

(『神奈川大学70年のあゆみ』から)