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神奈川大学創立前史

 創立者米田吉盛が中央大学専門部で学び、研究生活をおくっていた大正末期から昭和初頭にかけては、混乱した社会情勢が続き、血気盛んな青年たちが、社会問題に対して異常な情熱を燃やした時期でもあった。
 当時の社会を、米田は「左右が激突して弾圧に次ぐ弾圧と、同じ同胞同志、見るに忍びないような姿が毎日あった」と憂い、自分と同じくする「中正堅実」な青年を一人でも多く育成することが、また「そういう人が世の中に充足することによって国の騒擾たる状態は安定する」のではないかと真剣に考えるようになった。
 そこで彼は、研究者よりも教育者の道を選択し、「中正堅実」な青年育成のため専門学校の創設を企て、計画具体化に着手したのである。
 当時、三十歳にも満たない青年学徒であった米田は計画実現のため林ョ三郎、樋貝詮三をはじめ中央大学で培った多くの人々の人間的信頼関係によって専門学校創設の計画を着々と進めていった。また、地元横浜財界を代表して、渡辺銀行取締役渡辺利二郎の協力も得た。

横浜学院最初の募集広告
上の写真は横浜学院最初の募集広告である(『横浜貿易新報』1928年(昭和3年)3月28日付) 。
 
 専門学校創設の第一歩として1927年(昭和2年)東京・神田錦町の錦城中学(当時)の校舎を借りて、巡査や看守に法律を教える私塾「武蔵学園」を開設した。私塾は、予想以上の受講者が集まり、翌28年、いよいよ横浜学院の開設に踏み切った。横浜学院は、専門学校創立までの準備段階として設立されたものであった(「横浜学院要則」第1条)。
 当時の横浜には官立(2校)、市立、私立あわせて4校の高等教育機関(注)があった。しかし、多くの青年労働者をかかえながら市内には夜間部を併置する学校はなく、働きながら勉学を志すものは、やむなく東京の学校まで通わなければならなかった。米田は、この点に着目しつつ、夜間部を設けた専門学校を横浜に創設し、勤労青年に教育の場を提供しようと考えたのである。
 こうして1928年(昭和3年)12月19日、いよいよ「横浜専門学校」の設立認可の申請がなされ、翌1929年(昭和4年)3月30日付で文部大臣の認可となり、ここに神奈川大学の前身である横浜専門学校が誕生した。 (『神奈川大学五十年小史』より)


(注) 横浜高等商業学校(現、横浜国立大学)、横浜高等工業学校(現、横浜国立大学)、市立横浜商業専門学校(現、横浜市立大学)、関東学院高等学部(現、関東学院大学)の4校。