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― 歴史のひとコマ(1) ―

幻に終わった「横浜総合大学」構想

 
このころ、横浜市当局や一部市内専門学校関係者のなかに横浜市内に所在するいくつかの専門学校を合併若しくは連合して「横浜総合大学」を設立しようとする動きがあった。

 横浜市内の専門学校は戦時中空襲によって被災した学校が多く、その上戦後の悪性インフレから当時はどの専門学校も深刻な経営難に陥っていた。そのため、各専門学校が短期間のうちに単独で新制大学の陣容を整えることは非常に困難なことであった。

 しかも、新制大学は総合大学が原則とされていたので、市内の官立(工専、経専)や市立(経専、医専)の専門学校が同時に単科大学に昇格する可能性は極めて難しいと予想されていた。こうした理由から、市内の専門学校を再編して、横浜にふさわしい特色ある総合大学を設立しようという「横浜総合大学」構想が生まれたのである。

 この「横浜総合大学」構想は、政府が新制大学設置の方針を明らかにした直後に、主に横浜市当局や市立経済専門学校(Y専)の関係者によって提唱されたが、その内容は官立と市立の四校を合併して総合大学を作るというものであった。また、一部にはこの四校に私立の関東学院及び横浜専門学校を含める案や、さらにはこれらの六校に神奈川師範学校を加える案も出されていた。

 横浜市当局は、これらの案をもとに1947(昭和二十二)年秋から各専門学校の関係者との間で検討を積み重ね「総合大学」構想の具体化に努めたが、この構想の実現には財政的な問題や学部の編成方法などさまざまな難問があった。しかも、1947(昭和二十二)年十二月には、この構想に初めから消極的であった官立経専が単独昇格の意向を明らかにしたこともあって、1948(昭和二十三)年に入っても「総合大学」構想の進展はみられなかった。

 
横浜専門学校は、当初、この「総合大学」構想に経営的な観点から賛成し、構想が具体化すれば参加することを考えていたが、構想が実現をみない場合に備え、同時に単独で新制大学に昇格するための準備をも進めていた。しかし、1948(昭和二十三)年に入っても「総合大学」構想は、進展をみず、また在学生や同窓生、教職員の間では横浜専門学校の伝統を守り単独で新制大学を設置すべきであるとの意見が強かったために、1948(昭和二十三)年春には横浜専門学校はもっばら単独昇格を目指して準備を急ぐことになった。

 この時期には、他の専門学校もそれぞれ新たな構想の下で新制大学設置へむけた活動を始めており、「横浜総合大学」構想は、結局、なんら具体的進展をみないままに立ち消えとなったのである。

― 『神奈川大学五十年小史』から ―


総合大学問題を伝える『神奈川新聞』

総合大学問題を伝える『神奈川新聞』
- 1947(昭和22)年10月13日 -
記事冒頭で「六大都市のうち大学のないのは横浜市だけであるが、昭和二十四年からスタートする新教育制による新制大学の問題にからんで横浜に総合大学設立の機運がたかまり注目されている」としている。